その考え、自分が作り出しているのではありません

こんにちは

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日和風の佐藤海糸です。

 

今日もお越しくださり、ありがとうございます。

 

今日は節分ですね。

節分というと、今は恵方巻きなのかもしれませんが、私は断然豆まきです。

ネコが我が家にやってきて最初の豆まきのときは、大騒ぎでした。

まいた豆がカリカリ(ネコのごはんのこと)だと勘違いして、ネコが追っかけ回していました。

かわいかったなあ。

今じゃあ、全くの無反応。つまらない。

 

最近は、「鬼は外~」と言って、外に向かって豆をまくのは、控えた方がいいのかなと、小さな声でベランダにまいています。

そして、翌日まいた豆を片付けます。

そんな感じなら、もうやらなくてもいいんじゃないかと毎年思うのですが、やめるのはなんとなく気持ちが悪い感じがして、豆を準備してしまいます。

 

なんで、そんなに気持ち悪いんだろうと、節分についてググっていたら

豆のまき方について、こんな風に書いてありました。

 

炒った豆を枡に入れて、神棚へお供えします。

神棚がない場合は、目線より上のところにお供えします。

まくのは、夜。

できれば家族全員そろって

一家の主がまきます。

窓を開け「鬼は外」と大きな声で唱えてながら、外へ向かって豆をまき、すぐに窓を閉めて「福は内」と室内に豆をまきます。

家の奥から順番に、最後は玄関にまきます。

豆まきのあとは、年の数だけ福豆を食べましょう。

 

この記事を読んでいて、思い出しました。

 

子どもの頃、「今日は豆まきがあるから」と父がいつもより早く会社から帰ってきて、家族みんなで豆まきをしていたんです。

子どもたちが寝てしまうと家族そろって豆まきできないから、いつもより早く帰ってきていたんですね。

当時の私は、父がわざわざ早く帰ってくるんだから、これは大事なことなのだと思い、真剣な顔で見ていた記憶があります。

 

そんな訳で、節分、豆まきは、私にとって神聖なもの、大切な行事とインプットされているんですね。

やらないなんてあり得ない訳です。

 

そして余談ですが、適当にやっていると思っていた豆まきですが、ほぼこの記事の通りにやってました。

やり方もまるッとインプットされていたようです。なんかすごい。

 

豆まきをやめようと思うとうっすら罪悪感を感じたり、気持ち悪い感じがするのは、私の中に「豆まきはするもの」と、マイルールとして記憶しているからなんです。

 

このように、私たちは、過去の体験から、さまざまなことを学んで、それから先、よりよく生きていく上で教訓としたり、言動や物事を判断するための指針として記憶していきます。

こうやって、私オリジナルのマイルールがどんどん出来上がっていくんですね。

 

この「豆まきはするもの」というマイルールですが

私は関東圏にしか住んだことがないのですが、もし、関西にいたら、恵方巻きを食べることの方が大事に思うかもしれません。

父が早く帰って来なかったら、そんなに大事なことと思わなかったかもしれません。

 

つまり

 

どこ(国、地域)に住んで

誰と一緒にいて

どんな出来事があったのか

その時、自分はどんな風に受け止めて、どのように感じたのか

そんな自分はどんな性質なのか

 

そんなことが影響し合って、出来上がるものなのです。

 

自分の中にある指針となる考えや価値観というものは、自分が作り出したように思うかもしれませんが、自分の意思とは無関係に勝手に出来上がるものなんです。

 

自分の思考を観察することを続けていたら、本当にそうだなあ・・・と思うのです。

 

自分の意思とは無関係に、勝手に出来上がってくるものなのだということが見えてくると、それだけで、自分のマイルールの真実味が薄らいできます。

 

今の自分を苦しくさせているマイルールに対しても、同じです。

 

自分を苦しくさせている考えや価値観も、自分が作り出したものでなく、勝手に出来上がってくるものなのです。

 

自分のせいではないんです。

 

苦しい指針ほど、勝手に出来上がったものなのだと、眺めることができるようになると、そこから、距離を取ることができます。

 

距離を取ることができると、その苦しみからも飲み込まれてしまうことを防ぐことができます。

また、距離と取ることができると、その指針の真実味が薄らいできます。

 

そうすると、その指針、マイルール、持っていなくてもいいかもと思えるかもしれないし、持っててもいいかもと思うかもしれません。

本当は持っていたくないけど、今は手放すのはムリーなので、とりあえず持っている!と思うかもしれません。

 

いずれにしても、距離を取れると、選択の余地が生まれてくるのです。

この選択の余地があることに気がつけるかどうかって、大したことなさそうに感じるかもしれませんが、これがあるかないかで、苦しく感じる度合いがかなり変わってきます。

 

自分を苦しくさせている考えや価値観が浮かんでも、その様子すら観察していると、なんだか、そんな姿も健気で、愛らしくもあり、また、可笑しくも感じてくるものなのです。

 

と、かなり話が大きくなってしまいましたが

今日は豆まきです。

 

豆まきについては、いろいろ振り返ってみて、やめてもいいかもしれないけど、やめるのはやなり気持ち悪いので、

今年もやっておこうと思います。

 

先ほど、ささっと、豆まきしてきました。

 

ネコは耳を立てていましたが、カリカリの音とは違うと判断したようで、無反応。

私が豆まきする様子を、寝ながら見守ってくれていました。

豆まきのあとは、年の数だけ福豆をいただきました。

豆は美味しいけれど、数を食べるのが大変に・・・

 

明日は立春。

明日からまた気持ちのいいスタートが切れますように。

 

最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

またお会いできたらうれしいです。

では、心と体を温かくしてお過ごしください。