大変だったけど、不幸ではない

あるテレビ番組で、牧師さんがある高齢の女性とのやりとりについて話していました。

その女性の娘さんは若くして交通事故にあい、娘さんの体は自ら動かすことも、意思疎通をすることも難しい状態となり、それ以来、その女性はずっと娘さんのお世話をしてきたそうです。

その方が障害者施設殺傷事件の被告に教えてあげたいと、牧師さんに言ってこられたそうです。

「娘の面倒を見るのは大変だったけれど、でも不幸だと思ったことは一度もないんです。本当に大変だったけれど、不幸だったと思ったことは一度もない。事故にあったことは不幸だと思うけれど、娘に不幸にされたと思ったことは一度もないんです。」

牧師さんは一緒に泣きながら、「そうだそうだ」と話を聞いていたそうです。

「障害者はいらない、周りを不幸にする」ようなことを言っていた被告に対して、その女性はそうじゃないと伝えたいのだそうです。

その牧師さんの話を聞いて、私も涙が止まらなかったのですが、そのとき、悲しい涙でないことはわかったのですが、ではこんなに涙が出るのか、わからなかったのです。

職業柄というか、心の探求好きなただのオタクなだけなのですが、こういうとき、自分の中で何が起こっているのかが気になってしまうのです。

どんな涙だったんだろう・・・

その女性のことを聞いたとき、ソーシャルワーカーとして苦戦苦闘していたときに出会った、同じような境遇の方々のことが思い出されて、「本当に大変だった」というその女性の言葉に共感しての涙。

同時に、生きていること、ただそこに存在していることの奇跡とか、尊さ、輝きみたいなものが感じられて、それをこの女性も牧師さんも感じているのではないかという(私の思い込みですが)勝手に共感の涙。

そして

その女性の揺るぎない力強い言葉や、生命の輝きみたいなものを感じて、私の奥底にあった「大変=不幸」という思い込みが解けていったのでした。

大変な状況の人に対して、かわいそう、不幸な人と見ていた自分が恥ずかしく思え、このことに気づいていたら、もっと違った関わり方ができたのではないかと、今まで関わってきた方々に申し訳ない気持ちになりました。

何より、私が私のことを、かわいそうな人、不幸な人と見ていたけれど・・・違った。大変だったけど、私はかわいそうでも不幸でもない。そのことにも体感とともに気づいた涙だったのかもしれません。

自分自身、どうすることもできない、変わりようがないと思っていることも、どんなことがきっかけで、さらっと変化するのか、本当にわからないなあ、人の心は面白いなあと思うのでした。

そして、自分の知らない、気付いていない思いに気づくことができると、自分とつながった感じがして、チャリンと力が蓄えられていくのでした。

事件に関係されている方々、事件を見聞きして心痛められた方々、すべての方々へお見舞い申し上げます。